生き物
生きる 谷川俊太郎

えーと、ネタがないのでなんか書くこと無いか周りに聞いたら
生きるということってことについて書け、とか難題を出されたので
意地になって書きます。いじめ、かっこわるい。


だーいぶ前、今思うと凄いことしてんな俺と思うんだけど
大学生のときに谷川俊太郎も出る朗読会の受付なんぞを
したことがあり、そのとき生で見た谷川俊太郎は
他の詩人の人に比べてとっても普通のおっさんで、
それがまた信頼感があってかっこよかった。
変なこと言わなそうというか。奇人じゃねえな、というか。

詩ってもんは奇人の戯言じゃなくて言葉の科学なんだぞ、
と言ってる感じがして好感が持てる風貌だった。
まあ朗読自体はそんな感じしなかったけど。
個人的な意見を言えば、詩人は朗読するもんじゃないね。

でもって、ちょっと前の金八なんかでも使われたりした
その谷川俊太郎の『生きる』って詩があり、
これが教科書に載るほどなもんだから
さぞかし教育的で道徳的な詩なんだろうかと思って読むと
そんなことなく、
よく読んでも辞書みたいな詩だなあ、と思う。
生きるってことについての定義しかしてない。
谷川俊太郎本人の風貌みたいな普通の言葉の使い方だし。

まあでもその定義の方法が詩人の力っていうか、
平素の言葉の選択で詩的感覚を出すのが谷川俊太郎の特徴じゃないかなーと俺は思ってて。
この詩も一緒で、段落を進めるごとに
知覚→感応→感情発現って感じに広がる定義が進み
その段落の最後に他者との関係性を挟みつつ、
その後の段落で他者知覚→世界知覚、て壮大な感じにしつつ
どんどん広義の定義にしていくからなんか開放感があっていい感じだ。
よく考えると「かたつむりははうということ」っていうのは
生きるということの定義からはとっても遠い。

そして最後に「あなたの手のぬくみ」って言葉を持ってくるから
今までの他者との関係性での「生きる」ってことの定義も
自分の知覚と同一化して、さらに世界知覚の壮大感とか開放感が
自分の知覚と同化するわけであります。
それで読んでて気持ちよくなるわけでありますね。

あー、自分で書いててまとまってねえなあ、って思うわ。
まあさらに進めると、世界知覚・他人の感覚の知覚が何故
気持ちよくなるかっていうと、そういうとこに
生きることの充足感を得る感覚、っていうのが通常
万人に共通の感覚だからじゃないかと思うわけです。
世界で必要とされてる俺、とか。あなたがいる私、とか。
結構一般的な言葉だし。

で、この詩の気持ちいいところは、その世界知覚と
ミニスカート・くしゃみ、などの卑近な生活の言葉が
同地平で使われてるからなんじゃないですかね。
で、結果爽快感があると。
ミニスカート見れて嬉しい、て感覚が生きているという感覚、と
同義である、と言ってる、と。これで世界の見方が変わります。
何しても生きてる喜びである、と。

つまり、細かいことで喜ぶ事こそいきることだ、と。
そいうことがいいたいんじゃねすか。


強引・・・もうちょっとちゃんと書きたかったけど
書けなかったから寝ます。
細かいことで喜ぶ生活を勧める結論に行きたかったのに。
みんな細かいことで喜ぼうぜ。
07/19 00:27 | 日記 | CM:2 | TB:0
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